追悼文15 「日本の化学を築いた人たち」
 櫻井錠二先生
柴田雄次 「化学」16巻 第4号
<1961>
  
 先生は典型的の英国流紳士であったとは、誰もが一致していうところであった。それは単なる服の着こなしとか、身のまわりの整頓、礼儀の正しさなどからばかりいうのではない。その精神において紳士道が身についていた。正義にそむくもの、だらしのないもの、学問を軽蔑するものなどに対しては実に厳しかったが、日常人に接するには温容誠に親しみ易く、場合によっては冗談を飛ばされ、ユーモアも解せられた。筆者などの感じでは、しかし先生の宴会席上の卓上演説などはあまりに理路や用辞が整然とし過ぎてやや固いなといつも思った。

 先生は趣味として謡曲をたしなまれ(宝生流)、声量は大したことはなかったが、節廻しや間の正確さは聞く人の間に定評があった。囲碁、将棋も時には奔ばれ、晩年には麻雀も好まれたと聞くが筆者はその実否を知らない。 先生は八十一歳の長寿を保たれたが、また本文に掲げた写真のごとく、すこぶる子福者であられ、八人の令息令嬢が」今日なお健在であられることは目出度い限りである。  

先生の三大事業

 先生は比較的早く(筆者らが大学に入学した明治37年頃)研究生活から足を洗われ、専ら教育と科学行政や科学振興の方面に精魂を傾け尽くされた。それは維新以来日本の文化運動がとかく人文方面に重心が置かれ、自然科学は甚だしい冷遇を蒙っていたこと今日よりも遥かに甚だしかったためと筆者は考える。科学の振興なくしては日本の将来甚だ心許なしと先生はことごとに唱えておられたが、これを社会に確実に認識せしめるのは、単なる大学教授としての研究生活だけではその効果薄しと決全として実践の道を取られたわけである。

 先生の三大事業と筆者がいうのは、理化学研究所、学術研究会議(戦後解消)および日本学術振興会の設立である。1914年勃発した世界第一次大戦は同盟側、すなわちドイツ、オーストリア、トルコ等、連合側はイギリス、フランス、ロシア、日本、イタリア等で後にアメリカがこれに加わった4年にわたる大戦であるが、この大戦が長期戦となってくると物質、人材の消耗の激甚なことが次第に人心に深い暗影を与え始めた。

日本でもたとえ戦場は遠く、砲煙を耳目に接することのなかったとはいえ、染料、医薬、肥料を始め、いろいろの物質の欠乏が目立って、これが国内補給の必要性が漸く官民の注意を引くようになった。桜井先生はこの気運を捕えてかねての宿願の一大研究所の設立を実現すべく活動を開始された。そのはじめに当たって先生は化学研究所を考えられたが、化学一本では効果の十分でないことに思いおよばれて物理学をも加えて理化学研究所の形とし、学者、実業家、政府当局を説きまわり、ついに大正6年(1917)3月にその設立をみるにいたったのである。

 この事業は当時の情勢として、純粋の政府事業としては実現はむずかしく、民間の寄附金を主体にしなければ急速に運び難いことに着眼せられた先生は、実業界の大御所であった渋沢栄一子爵を説いてその賛成をかち得、渋沢子爵の斡旋で民間から600万円、政府出資200万計800万の資金を得て財団法人として発足ができたわけである。今日の価値に換算したら<昭和38年当時>20億円に余ると思われる醵金に成功し、今日まで46年間、たとえその間に多少の盛衰変遷があったとはいえ、日本の科学に大きく貢献した理研の設立が第一次世界大戦の戦塵いまだ収まらない非常時に成功したのは、ひとえに先生の熱意と官民の間における先生の絶大な信用のたまものといわれなければならない。

 大正7年(1918)の7月いたって、英国のRoyal Societyは連合国側に呼びかけて学術における従来の国際協力組織の一旦解消と再組織とを提唱し、その10月にロンドン会議を開いて今日も現存しているInternational Council of Scientific Unionを作り上げたが、このUnionから当然ドイツとオーストリアは除外された(両国は1930年に加入した)。この会議に、桜井先生は物理学の田中館愛橘先生とともに、当時なおドイツ潜水艦の盛んに跳梁していた海域を渡って出席せられた。そして国際的申合せにより帰朝後、このUnionに対する本邦側の窓口として政府を説いて文部省内に学術研究会議を設けしめた。学術研究会議は下部に多数の部と小委員会とを有し、学術と工業の研究連絡を司り、ことに第一次世界大戦後から第二次大戦にかけ、不足資源の問題その他でかなり活躍したが、太平洋戦後廃止せられ学術会議が異なった機能でこれに代わった。

先生は大正8年に率先定年退職の申合せの主昌者となり、38年間の教壇生活に別れを告げられた。そして自分は幸運の連続に恵まれここまできたのであるが、学界への罪ほろぼしとして理研や学術研究会議の建設に骨を折ったと謙遜の言葉をつねづね洩らしておられた。そして上記二つの大きな事業はおそらく先生なくしては日本に実現しなかったであろうと考えられるが、さらに先生を煩わして第三の科学振興事業を起こさざるを得ない情勢が次第に起こって来たのである。それは世界第一次大戦後の各国の疲弊による不況に影響せられ、国内的には大正12年大震災後から昭和5、6年頃にかけて日本の経済界はほとんど恐慌状態となり、世は不景気のドン底に喘ぐ有様で、新しい事業などは全く興らず、大学の卒業生ことに科学技術系のものはほとんど就職口もないといった情勢となった。これを打開するには優秀な研究者に給費して研究に専念せしめ、また科学と工業との連絡をはかって新しい独創的工業との連絡を興すほかに方法はないという声が有志の学者間にあがり、三度先生に縋って官民に呼びかけ実現を期しようということになった。このとき先生すでによわい70才を越えられ尋常の人ならば引退生活を送って余生を楽しむといっても何の不思議もない年頃にあられたが、敢然として、不景時代の募金という難事業に立ち向われた。このとき筆者は先生の側近にあって秘書的役柄を受持って雑事のお手伝をしたが、実のところ筆者など真の必要もなく、万事先生が親しく企画せられ、奔走せられ、数回にわたって学者や実業界第一線の人びとを集めて科学振興や人的資源要請の必要性を力説して人をして主肯せしめなければ止まないという気概を示され、また宮中でも科学振興に関する御前講演を行われた。その結果、財団法人学術振興会が生まれたが、これには多少の時日を要し全く合法的に成立したのは昭和7年の年末に近い頃であった。学術振興会は理化学研究所が自ら研究者と施設と専任研究員とを有する物理と化学の研究所であるのとは異なり、科学一般の研究補助と促進および研究者養成を主旨としたが、この最後の目的は実現しなかった。しかし昭和年中太平洋戦争週末の頃まであらゆる問題を多数の小委員会が熱心に研究し、いくつかの解決みた功は少からぬものがあった。この学術振興会終戦後しばらく開店休業の状態にあったが、今日は内容変更の上別途の活動が行われている。

先生の語学と国際活動

この稿のはじめにも述べたように、先生は今日でいえば小学生時代に英国に留学せられたため先生の英語は日本人離れのした完璧のものであることは世に定評があった。当時は今日ほど多くはなかったがいくつかの科学的国際会議が欧米各国で開かれ、その大多数に先生は日本を代表して臨まれ、また本邦では大正15年10月はじめて大がかりな国際会議が先生の主裁の下に開かれた。それには第3回汎太平洋学会で多数の外国学者が参加した。大正15年といえば大震災後間もない頃で、東京は大火の疵あとなお至るところに残り、会場に用いられた国会議事堂も木造の仮建築であったが先生の水も洩らさぬ企画で見事な成功を収めた。

先生が国際的会合において行われた英語演説は、先生の「思い出の数々」のうちに収められているだけでも約30あるが、ことに最後のものはすなわち昭和12年(1937)4月先生がロンドンのUniversity College の Honorary Fellowに挙げられ80才の高齢で渡英せられ、この名誉をうけられた祭の長い英語演説はわれわれ達の間に有名で、これはレコードに取って保存されている。筆者は一度先生の英語演説の原稿をみたことがある。それはタイプに打たれたものだが一語一語にアクセントが付けってあった。あれだけの英語大家でありながら、些事もゆるがせにせられぬ用意周到に筆者は感激したことがある。先生は一生の間に幾多の名誉ある内外の位置や称号を得られた。国内では帝国学士院長、貴族院議員、枢密顧問官、化学会会長、学術研究会議会長など、そして病あらたまった祭に男爵を授けられた。外国の各大学から得られた名誉学位としては英国グラスゴー大学、名誉校友としてUniversity College,名誉会員としてフランス化学会、英国工業化学会、英国Royal Institution, 米国化学会、ソ連科学学士院、ポーランド化学会、ロンドン化学会などである。

 桜井先生の著書と論文リスト

 学者には二つのタイプがある。自分の蔵蓄を筆によって世に伝える人と実践活動――研究的に或は啓蒙教育的に――に重きを置く人とがこれである。一般に後者には書斎にこもって筆に親しむ暇がなく、著書は少ない、これは内外有名学者の多くについていえることである。先生は正に後者に属し、先生の講演は無数といってよいほどあるが、著書としては、

  * 英国ラムゼー氏原著

   日本理学博士櫻井錠二訳

   化学理論の実験証明 全 明治25年発行 定価 金40銭

以上ただ一冊である。化学論文も多い方とはいえない。

下に挙げるものがそれである。

  * Metallic compounds containing bivalent hydrocarbon radicals

            Part T. Journ. Chem. Soc. 1880 T., 37, 658

            Part U. Ditto, 1881, T., 39, 485

            Part V. Ditto, 1882, T., 41, 360

    *  Methylence chlor-iodide, Journ. Chem. Soc., 1885, T., 47, 198

    *  Notes on the Specific volumes of aromatic compounds, Journ. Coll. Sc.,                 1889, 2, 405

    Determination of the temperature of steam arising from boiling salt          solutions, Journ. Coll. Se., 1894, 6, 1; Journ.
                    Chem. Soc., 1892, T., 61, 495

   Notes on an observation of Gerlach, of the boiling point of a solution of            Glauber’salt-. Journ.coll. Sc. 1894, 6, 1; Journ. Chem. Soc.,
            1892. T., 61, 495        
               
Proc. Chem. Soc., 1892, 94


   Modification of Beckmann’s boiling point method of determining the            molecular weight of substances in solution. Journ. Coll. Sc. 1894, 6, 23           Journ. Chem . Soc., 1892, T., 61, 989

   Constitution of glycocoll and its derivatives, Journ.
           Coll. Sc., 1895, 7, 87; Proc. Chem., 1894, 90.

   Constitution of glycocine. Proc. Chem. Soc., 1896, 38

   Molecular conductivity of amidosulfonic acid, journ.
      Coll, Sc., 1897, 9, 259, Journ. Chem. Soc., 1896, T., 69, 1654.

   Some points in chemical education. Brit, Ass. Rep.,
       Glasgow, 1901, 612; Chem. News, 1904, 89,305

   (論文リストは松原先生執筆 :Baron Joji Sakurai, D. Se, L. L. D.
      という英文記事より転載) 
追  悼  文
  1    大幸勇吉   2     柴田雄次   3      片山正夫   4     市河晴子
  5     阪谷芳郎   6  Yamaguchi Einosuke   7     桜根孝之進   8    
  9   Mizuno Yoshu   10    小原喜三郎  11     宮崎静二  12    奥中孝三
 13     大西雅雄  14     大幸勇吉  15      柴田雄次  16     鮫島実三郎